2022年11月22日发(作者:有声读物打包下载)
丘の上の少女は、マークにビンセント?ミレー通りのエナを思い出させた。それは、彼女が午後の陽射しの中でたんぽぽ色の髪を風に踊らせながら立っていたせいなのかもしれないし、彼女の長く細い脚を取り囲んだ古めかしい白のドレスのせいだったのかもしれない。ともあれ、彼は彼女が過去から現在へ飛び込んできたかのような印象を受けていた。そして、それは違っていた。彼女は過去からではなく、未来からやってきていたのだ。
彼は丘を登り、息をつかせながら彼女に距離をとって背後で休むことにした。彼女はまだ彼に気づいてはおらず、彼女を驚かせないように気づかせるためにはどうしたらいいか考えあぐねていた。その考えをまとめる間、彼はパイプに火をつけ、煙草が生命を宿らせるまでふかしていた。彼が再び彼女の方に向き直ると、彼女は振り返って彼を不思議そうに見つめていた。
彼は彼女の元へゆっくりと歩き出す。空は近く、風が顔に当たる感覚を、彼は楽しんでいた。彼は、もっとハイキングへ行くべきだな、と自分に言い聞かせていた。彼は、小屋と釣り用の桟橋のある小さな湖を抜け、秋の暗い炎に燃える、今は背後の眼下に広がる森を通り、この丘にたどり着いていたのである。彼の妻が陪審義務で不意に召喚される間、彼は夏期休暇の二週間に独りになることを強いられた。桟橋で日がな釣りをしたり、暖炉のそばで涼しげな晩を感じたりして2日が過ぎ、特に目的を持たずに森を抜け、丘にたどり着き、そして彼女に出会った。
彼女の元へたどり着いた時に見た彼女の目は青く、それは彼女の細いシルエットを縁取る空と同じ色をしていた。彼女の顔は卵型を形作り、その表情からは若く見え、やわらかく、そして甘い印象を受けた。風を受ける彼女の頬は、触れてみたいという強く抗いがたい衝動を感じさせるほどの既視感を覚えさせた。実際、彼は手がうずくのを感じたが、その手が脇から離れることはなかった。
なぜ、と彼は自問する。自分は44歳になる。彼女はどう見ても20歳は少し超えたくらいだろう。一体自分はどうしたというのか。「景色を楽しんでいたのか?」彼は大声でそう問うた。
「ああ、うん」彼女はそう言って、自分の手で半円を描きながら振り向くと、こう告げた。「だってすごいじゃない!」
「ああ」彼は彼女の視線を追った。「そうだな」その先には再び森が広がっており、低地を暖かな9月の色に染め上げ、数マイル離れ
たところで小さな村落を包み、国境の前哨地で終わっていた。はるか遠くに目をやると、コーヴ市の全景はもやが包んで柔らかげ、まるで不規則に広がった中世の城であるかのように、夢よりも現実味のない印象を与えた。「君も街から来たの?」彼は尋ねた。
「ある意味ではそうね、」彼女は微笑みかけて答えた。「私は240年後のコーヴ市から来たの」
それは、彼にその言葉を信じることは期待しているのではなく、そうした振りをしてくれればいいと告げるような笑みだった。彼は、笑いかけて言った。「それって、西暦2201年ってことだよな? それまでには、ここはものすごく発展しているんだろうな」
「うん、そうね」彼女は足元の森の端を指差し、「この辺りまで巨大都市(メガロポリス)が広がっているわ。2040th通りがあのカエデの木立をまっすぐ走っていて…、あそこにアカシアの木が立っているのが見える?」
「ああ、」彼は応える。「見えるよ」
「あそこは新しい商店街なの。そこのスーパーマーケットは全部回るのに半日かかるくらい大きくて、アスピリンからエアロカーまで何でも買えるのよ。その隣にはブナの木立があって…、大きいドレスショップがあって、最先端をいくデザイナーの作品が並んでるの。このドレスも朝にそこで買ったのよ。すごいキレイでしょ」
それがその通りなのだとしたら、それは彼女が身につけているせいなのではないだろうか。しかしながら、彼は不躾にならないようにそれを見つめた。それはまるで綿菓子や、海の泡や、雪を混ぜ合わせたような、彼が知らない素材から作られていた。奇跡の繊維製造業者には、合成技術に限界はないのだろう。そしてそれは、若い少女が考えるほら話にしても同様である。「ここにはタイムマシンで来たのか?」彼は尋ねる。
「うん、お父さんが発明したの」
彼は近寄って彼女を見つめた。彼はそれまで、そんな含みのない相貌を見たことはなかった。「それで、ここにはよく来るの」
「うん、ここはお気に入りの時空座標なんだ。時々何時間もここに立って、ずーっといろんなものを見ているの。おとといは兎を見たわ。昨日は鹿、今日はあなた」
「でも、君がいつも時間の中で同じポイントに戻るなら、どうして『昨日』があるんだ?」
「ああ、そうね」
「マシンは異物として時の流れに影響を与えてしまうから、同じ『座標』を維持するためには、24時間ずらす必要があるの。私は違う日に
戻ってこられたほうがいいし、そんなことしないわ」
「君のお父さんは一緒に来たりしないのかい?」
頭上を越えてVの字を描いて飛んでいく雁の群れをしばらく見つめた後、「私のお父さんね、病気なの」と彼女は言った。「来られるなら、絶対来たいと思うんだ。でも、私が見たものを話してあげるから」そして早口で付け加えた。「だから、本当に来たのと同じでしょ? ねぇ、そうよね?」
彼女の真剣な眼差しは、彼の心に触れた。「自分のタイムマシンを持ってるなんて、」
「すばらしいことに違いないよ」
彼女は真面目な様子でうなずく。「草地に立つことが好きな人にとってはね、最高。23世紀には、草なんて生えてるとこほとんどないもん」
彼は笑いかける。「20世紀にだって、そんなに残ってるわけじゃないさ。マニア向けのコレクターズ?アイテムに分類されてると言っても過言じゃあない。僕ももっとこんな所を訪れないとな」
「あなたはこの近くに住んでいるの?」
「3マイルほど戻った所にあるキャビンに滞在してる。ここで休暇を過ごそうかと思ったんだが、あまり長くはいない。妻が陪審義務で呼び出されてね、一緒に来られなかったんだ。休みも延期できないし、気の乗らないソロー気取りはやめにしたとこさ。僕はマーク?ランドルフ」
「私はジュリー。ジュリー?デンヴァース」
その名前は、彼女にとても似合っていた。彼女がまとった白いドレスが、この青い空が、丘が、9月の風が彼女に似合っていたように。多分彼女は森の中の小さな村落で暮らしているのだろうが、そんなことはどうでもいい。彼女が未来人を気取りたいだけだったのだとしても、そこに何も問題はなかった。重要なのは、彼が彼女を最初に見たときに感じたこと、そして彼女の上品な顔を見つめた時にわき上がる優しい気持ち。それだけだった。「ジュリー、君はどんな仕事をしているんだ? それとも、まだ学生かい」
「私は秘書になる勉強をしているの」そう言いながら、彼女はつま先立って体を翻し、胸の前で手を合わせた。「私ね、秘書の仕事ってとても好きになれると思うんだ」彼女は続ける。「大きなオフィスで、誰もが重要だと思うようなことを記録していくの。それって、すっごいことだよね。ね、私を秘書にしてみたくない?ランドルフさん」
「それはとてもいいね」彼は応える。「妻は、戦争前に僕の秘書をしていたんだ。それが出会ったきっかけだよ」まて
、俺は何を言っているんだ。
「奥さんはいい秘書だった?」
「最高だね。秘書としての彼女がいなくなったのはとても残念だ。でも、ある意味で彼女を失い、別の意味で得たんだろうね。彼女がいなくなったおかげで、電話の取次ぎが大変だったよ」
「そうなんでしょうね。あ、もう帰らないと。パパが私の見てきたものを聞きたくて待っているし、夕飯を用意しないと」
「また明日会えるかな?」
「うん、多分。ここには毎日来てるしね。また明日、ランドルフさん」
「また明日、ジュリー」
彼はジュリーが軽やかに丘を降りていき、2040th通りの存在する、240年後の世界のあるカエデの木立の中に消えていくのを見つめていた。彼は笑った。なんて可愛らしい子どもなんだろう。こんな人生の中で夢中になれるような、驚きを禁じえないような感覚があるというのは、なんとわくわくすることなんだろう。彼はそれを否定したからこそ、2つの事柄を完璧に成し遂げることができたのだ。20歳の頃、彼はロー?スクールに通う真面目な青年だった。24歳には、小さいながらも開業することができた。彼はそれに満足し…、いや、完全に満足したというわけではなかったか。アンと結婚して後は、急いで生計を立てる必要もなくなり、少し時間を置いた。戦争が始まると、「暮らす」ということが遠いものになり、あるいは卑しいものであるかのようにさえ感じられるようになっていた。しかし、市民としての生活に戻ってくると、またあくせくした日々が戻ってくる。今では妻と息子を得て、年に一度4週間の休みをとり、湖のそばのキャビンでアンとジェフと共に2週間を過ごし、ジェフが大学へ戻っていった後の残りの2週間をアンと過ごす以外は、仕事に専念してきた。しかしながら、今年は後の2週間を、彼は一人で過ごしていた。もっとも、まったく独りでというわけではなかったのだが。
パイプの火はとうに消えてしまっていたのだが、しばらくはそれに気づきさえしなかった。彼は再び火を点け、丘を降りると森を抜けてキャビンへともどり始めた。秋分が過ぎて、日はますます短くなっている。辺りにはすでにぼんやりとした夜の匂いが満ち始めていた。
彼はゆっくりと歩き、日が沈む頃に湖へと着いた。湖は大きなものではなかったが、深さはそれなりにあり、周りを木に囲まれていた。キャビンは水辺から少し離れた松林の中に建っており、桟橋から小道が続いていた。小屋の裏手か
らは砂利道が伸びており、それをたどっていけばハイウェイに出られるはずだった。小屋の裏口には、彼のステーションワゴンが停められており、彼を文明の元へ戻す準備はいつでもできているようだった。
キッチンで簡単に食事を済ませ、本を読むために寝室へ向かった。時たま発電機がうなる音が聞こえたが、それ以外に夜を妨げる現代人の耳に慣れた音はなかった。暖炉の横にしつらえた棚から詩集を選ぶと、腰を下ろしてページをめくりながら、彼は丘での午後に思いをはせていた。お気に入りの詩に3度目を通す間、彼は陽光の下で立ち、髪を風に揺らしながら、雪のようなドレスで脚を包んだ彼女のことを思い出していた。彼はのどにつかえを感じ、それを飲み下すことはできなかった。
本を棚に戻すとキャビンを出て、錆の浮いたポーチに彼は立っていた。パイプに火をつけると、努めて彼の妻のことを思うようにした。すぐに彼女の顔が思い出される。しっかりとしていて優しい顎、温かさを持ちながらどこか恐れを浮かべ、そしてその理由はついぞ知ることができなかった瞳、未だ柔和さを失っていない頬、優しい微笑み。そして鮮やかな茶色の髪と、優雅に見える背の高さ。それらすべての要素は強く目の裏に焼きついている。彼女のことを思い出すたびに思うのは、彼女がまったく年をとらないということである。遠い昔、おずおずと彼のデスクの前に立っているのを驚きの目で見上げた頃と変わらず、愛しいまま年を重ねている。当時は、まさか20年後に自分が娘ほども年の離れた超妄想少女と秘密に会っているとは、思いもしなかったろう。いや、そうではない――彼は動揺していた。それだけだ。少し平静を欠いていて、目がくらんだだけだ。今はもう足は地についており、元通りに戻っている。
一服を終えると、彼は部屋に戻っていった。寝室で服を脱ぎ、ベッドにもぐりこんで灯りを消した。彼はよく眠れる方だったが、その日はなかなか寝付けなかった。ようやく眠りについたころ、もどかしいような夢のかけらが訪れた。
「おとといは兎を見たわ。昨日は鹿、今日はあなた」
二度目の午後、彼女は青いドレスを身にまとっており、同じく青色の小さなリボンが、たんぽぽ色の髪にとてもよく似合っていた。丘の上まで上り詰めた後、喉が詰まるように感じるのを身動きせずしばらくじっと待ち、風に揺られる彼女の横に並んだ。しかし、彼女の緩やかなカーヴを描く喉か
ら顎にかけてのラインを見ると、再び息が詰まるようになるのを彼は感じた。彼女は振り返って言う。「こんにちは。もう来ないかと思ったよ」。その言葉に答えるのに、彼は時間を要した。
「でも僕は来た」やっとのことで告げる。「そして君も」
「うん」彼女は言う。「うれしいよ」
そばにあったむき出しの花崗岩でできた天然のベンチに腰掛けると、二人は眼下を見下ろした。彼はパイプに火をともし、風の中に煙を吐き出した。「私のお父さんもそうやってパイプを吸うな。火をつけるときにね、そうやってパイプを手で覆うようにするの。風もないのに。なんか、お父さんといろんなとこが似てるわ」
「お父さんの話をしてくれないかな。君の話も」
彼女は話し始めた。自分の年が21歳になること、父親が引退した政府の物理学者であるということ。彼等は2040th通りの小さなアパートに暮らしているということ。母親は4年前に他界しており、彼女が家事をしているということ。その後は、彼の話す番になった。アンとジェフのこと――いつかジェフを仕事のパートナーに迎えたいと考えていること、妻が写真に絶対に写りたがらないこと、それは結婚式の日から始まり、今に至るまでずっと変わらないこと。そして去年の夏に3人で過ごしたキャンプ旅行の素敵な時間…。
彼が話し終えると、ジュリーが言う。「いい家族と暮らしてるのね。ああ、1961年って、暮らすには最高の年なんだわ!」
「タイムマシンが自由に使えるなら、好きな時間に行けるんだろ」
「そう簡単にはいかないわ。実際にするかどうかは別にして、私はお父さんのそばを離れられないの。時空警察って問題があるからね。時間旅行はね、政府に認められた歴史的な探索にしか許されていないの。一般人には縁のないものなのよ」
「難なくやってるように見えるけどな」
「それは、お父さんが自分でマシンを発明したから。時空警察はこのことを知らないわ」
「じゃあ法に触れてるのか?」
彼女はうなずく。「でもね、彼らには自分たちの時の概念しか目に入ってないのよ。私のお父さんの考えは違う」
彼女の話が真実であるか。それはとるに足らないことだった。彼女の話がどれほど途方もないものであったとしても、彼女の話を聞くのは、それだけで心地よかった。
「続けて」
「まず、公的な見解を話しておかないと。時間にかかわる人たちは、皆過去に干渉すべきではないと考えているわ。でないと
、過去への干渉がパラドクスを引き起こして、未来の出来事を改編してしまうから。だから、時間旅行に旅立つのは許可された人物に限られているし、警軍が歴史家のふりをして興味本位で時間旅行をしたがる人たちを取り締まっているわけ。自由にいろんな時代を行き来できるのは彼らだけね。
でもね、お父さんの考えはこうなの。時のシナリオはすでに書かれている。マクロ宇宙的な視点で見れば、まあお父さんの受け売りなんだけど、すべてすでに起こったことであると言うのよ。未来の人間が過去の出来事にかかわったとしても、それは出来事の一部でしかない――それは最初から決まっていたことだから――だからパラドクスは起こり得ないというのね」
マークは新しい煙草がほしくなり、パイプに詰めなおした。
「君のお父さんは面白い人だな」
「ほんとよっ!」
彼女は夢中になり、頬を上気させていた。彼女の両眼は蒼い輝きをたたえている。
「ランドルフさん、お父さんが今まで読んだ本の数なんて、聞いても多分信じられないわよ。うちのアパートなんて、もうほんとにあふれ返ってるんだから! ヘーゲルにカントにヒューム。アインシュタインにニュートンにヴァイツゼッカー。私も…、私もね、いくつかは読んだの」
「ああ、それなら持ってるな。僕も読んだよ」
彼女はぐっと彼の顔を見詰める。「すごいじゃん、ランドルフさん。私たち、きっと趣味合うよ」
そしてそれは、続く会話が証明していた。それは超越論的審美学についてであったり、バークレイズムやら相対性理論で、9月の丘の上で男女が語るにはまったく似つかわしいものではなかったのだが。しかもそれが44歳の男と21歳の女の子なのである。だが、彼らにはそれを埋めるものがあった。超越論的審美学に関する議論は対象をいろいろと移していき、アプリオリ(先天的)かつアポステリオリ(後天的)な結論よりも、彼女の両眼に輝くミクロ宇宙的な星々を導き出した。バークリーに対する批判は、その善良な聖職者の生来の弱点より強く、彼女の薄桃色の頬を際立たせた。相対性理論に対する考察は、Eがmcの2乗に等しいことに増して、知識があることが女性的な魅力に対して障害にならないことを論証づけていた。
その一時の感覚は、彼がベッドに入った後もしばらく続いていた。今回は、彼は悪いこととは思いながら、アンのことを思い出そうとさえしなかった。暗闇の中で、その代わりにさ
まざまな思いが浮かんでは消えた。――そしてそれらはすべて、たんぽぽ色の髪をして、九月の丘の上にいた少女に関係していた。
おとといは兎を見たわ。昨日は鹿、今日はあなた。…
次の朝、彼は村の郵便局まで車を走らせ、手紙が届いていないかを確認した。手紙は届いていなかったが、それに驚きを感じることはなかった。ジェフは自分と同じくらい筆不精だったし、アンは恐らく外界との接触を制限されているだろう。また、彼は習慣として、緊急の用件での連絡しか秘書に許していなかった。
マークは、この辺りにデンヴァースという名の家族が住んでいないか、しわだらけの郵便局長に尋ねようかと考えた。しかし、それはしないことに決めた。そんなことをすればジュリーが丁寧に作ったお話を台無しにしてしまうことになるのかもしれない。ただ、彼はそんな作り事の効力を重んじてはいなかったし、心がそれで揺らぐとも思えなかった。
その日の午後、彼女はその髪と同じ色合いの黄色いドレスに身を包んでおり、そんな彼女の姿を見ると、彼は再び息を呑むはめに陥り、しばらく話しかけることができなかった。しかし、ひとたび話し始めるとそんな気持ちは消え、思考がさながら2つの奔流のように、午後の涸れ谷を流れていった。別れ際に彼女が残した言葉、「また明日も会えるかな?」――これは彼の言葉を真似たものだったのだが――は、森を抜けてキャビンに戻り、ポーチでパイプをふかした後眠りにつくまで、彼の耳に歌声のように響いていた。
次の日の午後、丘の上には誰もいなかった。一旦落胆したものの、彼女は遅れているのだろう、すぐに丘を上がってくるに違いないと考え直した。花崗岩のベンチに腰を下ろして彼女を待つことにしたが、一向に姿は現さなかった。数分が過ぎ、数時間が過ぎ…、森から伸びた影が丘に差し掛かっていた。あたりの空気が冷たくなってきたところで待つのをあきらめ、失意のままキャビンへの帰路についた。
次の日の午後も、彼女は現れなかった。その次の日も。彼は寝食を忘れてしまっていた。釣りをする気にはなれなかったし、本を読むこともできなかった。そんななかで、彼は自分が恋の病にかかった学生か、あるいは可愛らしい顔や美しい脚に反応する世間の四十男のようになっていると嫌悪を感じていた。数日前までは他の女性に興味を示すこともなかった彼が、ここで過ごした一週間たらずのうちに、彼女に一目
ぼれをしていたのだ。
失ったはずの希望が、4日目に丘に登って彼女を陽光の下に見つけたとき、彼の中で息を吹き返すのがわかった。今日は黒いドレスを身に着けており、彼は彼女の不在のわけを考えるべきだったのだが、丘の上で再び彼女を目にするまで、それに思い至ることはなかった。彼女は、涙をこぼしながら唇を震わせていた。
「ジュリー、どうしたんだ?」
彼女は彼にすがりつき、彼のコートに顔をうずめて肩を震わせながら言った。
「父さんが死んだの」
そして彼は、その涙が通夜や葬儀の時にも流れることはなく、今ここで初めて流されているものだと分かっていた。
彼は彼女に優しく腕を回し、ついぞキスをしなかった彼女の額に唇で触れ、軽く髪をなでた。
「すまない、ジュリー。君がどんな思いをしたかわかるよ」
「お父さんはね、自分が長くないと知っていたの。多分、ラボでストロンチウム90の実験をしていた時からわかっていたんだわ。でも、彼は誰にも…、私にもそのことを言わなかった…。私、何のために生きていけばいいの? お父さんがいなくなってしまったら、もう何も残っていないわ、何も、何も!」
彼は彼女をきつく抱いた。「それのために生きようと思える何かが、あるいは誰かがきっと見つかるさ、ジュリー。君はまだ若い。君はまだ子どもだ。だろ?」
彼女の顔が不意に向けられたかと思うと、彼をきっと見詰める目にもう涙は残っていなかった。
「私は子どもじゃないわ! 子どもだなんて言わないでよ!」
驚きのあまり、彼は手を離して後ずさってしまう。そんな彼女の怒りの表情を見たことはなかった。
「いや、そんなつもりじゃ…」
彼女は、突然見せた怒りの感情をもう収めているようだった。
「別に私を傷つけるために言ったんじゃないのはわかってるけどね、ランドルフさん。でも、私は子どもじゃないし、子どもでいたくないと思ってるの。だから二度と子ども扱いしないで」
「ああ、わかった。約束する」
「さて、もういかないと。やらなきゃいけない事がいっぱいあるの」
「また…、また明日会えるかな?」
彼女は長いこと彼を見ていた。夏の突然の雨が上がった時のように、濡れた彼女の青い瞳がきらきらと輝いていた。
「タイムマシンがね、壊れてしまったの」彼女は言う。「いくつかパーツを取り替えなければいけないんだけど、どうやればいいのか…。私たちの…、私のマシンでは、あと1回時
間旅行ができるかどうか」
「でも、来るつもりなんだろう?」
彼女はうなずく。「うん、やってみるつもり。でね、ランドルフさん?」
「ん、なに?」
「もし二度と会えなかった時のために、これだけは覚えておいて。…あなたが、好きです」
彼女は去った。丘を駆け下りていき、間もなくカエデの木立の中に姿を消した。パイプに火をつけようとした彼の手は震え、マッチの火が指を少し焦がした。その後自分の部屋で目を覚ました時には、それらをしているには違いないのだが、キャビンに戻ったことも、食事を作ったことも、ベッドに向かったことも覚えてはいなかった。キッチンに行くと、それらを証明するように水切り台の上に食器が立てかけてあった。
彼は皿を洗い、コーヒーを淹れた。桟橋で釣りをしながら午前の時間を過ごす間、彼の頭は真っ白だった。そうしているうちに、段々と心が現実へ戻ってくる。今や彼女が彼を愛していると知るには充分だった。あと数時間もすれば、また彼女に会うことができるだろう。タイムマシンが壊れていたとしても、村落から丘まで彼女を運ぶのに何の問題もないはずだ。
彼は早く丘に着き、花崗岩のベンチに座って彼女が森を出て斜面を登ってくるのを待った。彼は心臓が早鐘のように打つのを感じ、手が震えていることに気づいていた。
――おとといは兎を見たわ。昨日は鹿、今日はあなた。
どれほど待ち続けても、彼女が来ることはなかった。その次の日も。影が伸びて差し掛かり、辺りの空気は身を切るほどに冷たく頃、彼は斜面を降り、カエデの木立の中へ入っていった。そこには小道が見つかり、森を抜けて村落へと続いているようだった。彼は郵便局の前で立ち止まり、手紙の有無を確かめた。しわだらけの局長に何もなかったと告げられた後も、彼はしばらくたたずんでいた。
「ここに…、ここにデンヴァースという名前の家族はいませんか?」彼は出し抜けにそう尋ねた。
局長は首を横に振る。
「そんな名前は聞いたことねえな」
「じゃあ、最近この街で葬式があったということは?」
「いや、ここ一年そんな話はねぇぞ」
その後も休暇が終わるまで毎日丘には通ったのだが、彼女がもう戻ってこないことは心の底でわかっていた。まるで最初からいなかったかのように。
かの郵便局長の言が間違っていることを期待しながら、彼は夕べごとに村落に通い続けた。しかし、ジュリーの痕跡を探すことはできず
、道行く人々からもなんら情報を得ることはできなかった。
10 月の始まりに、彼は街へ戻った。彼はアンに対して、何もなかったかのように努めて振舞うことを心がけた。しかし、彼女は即座に何かあったことに気づいたように見えた。彼女は何も聞くことはなかったが、日に日に口数が減っていき、彼女の目に表れた何かを恐れるような色が濃くなっていくのを見て、彼は困惑した。
日曜の午後、彼は郊外へと車を走らせ、丘の上を訪れた。木々はもはや黄金色づいており、空は一月前にみたより青さを増していた。何時間かを花崗岩のベンチで過ごし、彼女が姿を消した場所を見詰めていた。
――おとといは兎を見たわ。昨日は鹿、今日はあなた。
11 月半ば、雨の夜。彼は一つのスーツケースを見つけた。それはアンのもので、見つかったのはまったくの偶然だった。彼女が街にビンゴ遊びをしに行き、彼が留守番をしていたのだが、2時間ほどつまらないテレビ番組を見た後、ふと昨年の冬に買ってしまいっぱなしになっていたジグソーパズルのことを思い出したのである。
ジュリーのことを考えないでいられるなら何でもいい――半ばヤケになりながら屋根裏部屋を引っ掻き回していた時に、件のスーツケースが見つかったのである。色々な箱に紛れて置かれていたそれは、棚から落ちて床をしたたかに打ち付けると、ふたが外れて中身をばら撒いてしまった。
彼は中身を拾うためにかがみこむ。それは妻と結婚した際に、小さなアパートへ彼女が持ち込んだものだった。スーツケースのロックがはずされることはなく、彼がその中身を尋ねても、彼女は笑って夫に教えられない妻の秘密だ、と言うばかりだった。年月が経って鍵が錆びつき、落とした拍子に壊れてしまったらしい。
ふたを閉めようとして、中からはみ出た白いドレスが目に入ると、彼の手は止まった。その素材には、おぼろげながら見覚えがあったのだ。それは、それを見たのはそれほど昔ではない――そのドレスは、綿菓子と海の泡と雪で作られていた。
彼はケースのふたを上げ、震える手でドレスを手に取った。肩にかけてドレスを広げてみると、まるで部屋に新雪が舞い降りてきたようだった。長い間、彼は喉が詰まるのを感じながら、そのドレスを眺めていた。それからそっと元通りにたたむと、ケースの中にしまい直してふたを閉じた。そうして彼は、スーツケースが元あった場所に戻しておいた。
――おと
といは兎を見たわ。昨日は鹿、今日はあなた。
屋根を叩く雨音が聞こえ始めた。喉が詰まる感じは強く、彼は涙をこらえるのに必死だった。ゆっくりと屋根裏から階下へ降り、螺旋階段を通ってリビングへ戻った。時計は10時14分を指している。もうすぐビンゴから帰るバスがアンを乗せることだろう。それから通りを抜けて家の前まで歩いてくるのだろう、アンは…、ジュリーは。ジュリー、アン? ジュリアン?
それが彼女のフルネームじゃなかったのか? 恐らくそうだ。人は偽名をつかう時にもオリジナルのものをもじったものを使うものだ。彼女の場合、姓を完全に別物にしたことで安堵したのではないか。時空警察から逃れるために、彼女は名前を変えるのもさることながら、いろいろなことをしなければならなかったに違いない。彼女がずっと写真を拒み続けていたことは何の不思議もなかった! 昔日のあの日、仕事を得るためにマークのオフィスを訪れたというのは、なんと勇気の要ることだったのだろう! 見知らぬ時代にたった独りで、父親の理論が正しいかどうかなんて分かるはずもなく、一人の男が40歳の時に感じた想いを同じように20歳の彼が彼女に向けてくれるのかも分からないまま…。しかし、彼女は確かに「戻って」きていた。彼女が言ったとおり。そして、未来でそれは確実に行われるのだ。
20年の間、彼女は知っていたのだ。私がある日9月の丘に上り、若くて愛おしい彼女に会うことを。陽光の下、彼女に再び恋することを。彼女が知っていたのは当然だ。それは私の未来の出来事であり、彼女にとっては過去のことなのだから。しかし、何故教えてくれなかった? 何故それを私に言わないんだ?
突如、彼は理解した。
彼は息が詰まるのを感じて、ホールからレインコートを取り出すと、それをひっかけて雨の中で飛び出した。雨の中を歩いていくと、雨粒が顔を打ち、頬を流れ、しずくとなって落ちて――その中には、少なからず涙も含まれていた。
彼はアン――ジュリーのように、若さを失わない女性を知らない。それでも老いることを恐れていたのか? 彼女には分からなかったのだろうか。彼の目には、あの日からずっと老いていないように見えていることを。あの日、小さなオフィスでデスクから顔を上げ、目の前に立つ彼女に瞬時に恋したあの日から。彼女には、それが丘の上の彼女が彼にとって見知らぬ人に見えた理由であることが分からないのか?
彼は通りに着き、曲がり角へ向かって歩いていった。ビンゴからの帰りのバスが停車した時、もう彼はほとんど追いついており、白いコートの少女のことは頭から消えていた。彼の喉は今では針のようになるほど締め付けられており、もはや息をするのもままならなかった。たんぽぽ色の髪は今では少し暗い色になっている。少女らしさはなくなってしまったが、彼女の顔には優しさと愛しさが残っていた。長くほっそりとした脚は、11月の通りの暗い輝きの中で、9月の太陽が照らす黄金の光の中では気づくことのなかったしとやかさを保っていた。
真っ直ぐに彼のもとへ歩き始める彼女の目には、見慣れた恐れの色があった。今なら、その恐れの理由も分かる。目の前の彼女の姿がにじんで見え、彼は目を閉じて彼女の方へ歩き出した。彼女の前に立つと、彼の目はすでに開かれていた。何年もの時を越え、彼は彼女の雨に濡れた頬に触れた。それですべてを知った彼女は、目の中にあった恐れを永遠に追いやった。彼と彼女は手をとって、雨の中を我が家に向かって歩き始めた。
〈了〉